過去ログ一覧   日記ホーム   沼田高校吹奏楽部   沼田高校吹奏楽部 BBS


■2006年02月04日(土)  MY WAY(13)“出逢い”
"MY WAY"シリーズも12作目から休眠状態だったが、生きているうちにそろそろ続きを書かなくてはと、気を取り直して再スタートすることにした。

高校〜大学と音楽三昧の生活だったが、多くの出逢いもあった。私は高校卒業後、一年間浪人をしたのだがこの一年間も様々な出来事があった。

浪人が決まってすぐにしたことは「自動車学校」に通うことだった。約一ヶ月で普通免許を取得し、建築ブームで少し羽振りの良くなった両親に頼みこみ、中古の自動車を購入してもらった。実はこれにはある目的があった。浪人中に運転手のアルバイトでいくらかでも進学のための資金を稼ぎたかったからなのだ。

免許を取ってすぐに両親の知人のところで運転手が必要だというので、農機具の営業の仕事をすることになった。仕事といってもただ運転することだけであるが、毎日会社の人を乗せて広島県内の農協を回る仕事だった。

その当時扱った商品は「供出米用袋詰導入機」という漏斗(じょうご)で、供出用の米袋の中に差し込んで玄米を袋詰めする道具だった。漏斗を差し込む袋が立つことで一人でも上限まで米を入れることができ、上端まで詰めると丁度30キロとなり、漏斗を引き抜くと作業終了というアイデア商品だったがあまり売れなかった。結局半年ばかり仕事をしたが、たいした収入にもならずクビになった。

この頃は受験地獄といわれ、私以外にも浪人した友人が多かった。たまたま私の高3の時のクラスメイトには美大受験の友人が多くいた。広島にもいくつかの美大受験生対象の塾があり、私の友人たちも「松本真美術研究所(現在の「ひろしま美術研究所」)」に通っていた。

友人と遊ぶときにはよくこの「松研」まで迎えに行ったのだが、そこに一人のとても髪の短い女の子がいた。名前もよく憶えていなかったが、松研の連中の中でもかなり目立った存在で、音楽仲間には全くいない個性的なタイプで、それが私の目には何かカッコよく見えたと記憶している。

だが、彼女のことはそれ以上の進展もなく、会うこともなかった。翌年私は大学に進学し、広島を出て東京生活を始めていた。5月頃のある日、音大の仲間たちと「うなぎ」を食べに行こうということになり、夕方数人で池袋の町を歩いていると、前方からどこかで見たような女性が数人連れで歩いてくる。東京の街で知り合いに会う確率はとても少ない。同じ大学の友人とも滅多に出くわすことはない。

誰だったかを思い出すことが出来ないまま、彼女たちが目の前まで来たとき、むこうもこちらに気がついたらしく笑顔になり声ををかけてきた。「松研」の彼女だと気がついたのは声をかけてからだったように憶えている。

聞くと彼女は芸大受験に失敗して二浪となり、東京の予備校に通っているらしい。お互い心細い東京生活だったこともあって、結局電話番号を教え会ってその場を別れた。

これが私と妻との二度目の出逢いである。人生はどこで何が起こるかわからない。


  
ご愛読ありがとうございます。ご遠慮なくコメントをお書きください。
  • bjqqgmjnqdm(2011/11/25 05:28)
    USA
  • kxrmsee(2012/02/24 02:12)
    USA
  • orhwemqnr(2012/05/01 16:59)
    USA
  • msdsrp(2012/11/24 11:23)
    USA
Name   Message   

■2006年02月05日(日)  MY WAY(14)“帰郷”
やがて4回生となり、誰しも卒業後の進路について考える時期となったのだが、私はというとこれが情けないことに、全く無目的で自由気ままな日々を過ごしていた。4回生になると本番や講義も少なくなり、昼間は雀荘に入り浸り、夜はキャバレーのバンドマンという荒れた生活で、すでに不足単位は2桁に上り(幸い各学年での留年はない制度だったが)、このままでは卒業もままならない状態だった。なにしろ時は70年代前般、世間は「大学紛争」のまっただ中、「全学連」だの「革マル」だのが「70年安保」などで「機動隊」と衝突し、東大をはじめ早稲田・明治など近くの主な大学は閉鎖状態となり、とにかく大学生がまともに勉強できないご時世だった。

音大生といえども、全学連に所属していてデモ行進や学生集会があり、とにかく騒然とした時代だった。さらに新宿駅あたりに行くと「フーテン」と呼ばれる浮浪者風の若者がシンナーの袋を片手にフラフラと歩いているし、駅構内ではフォークギターに併せて「反戦歌」を合唱する何百人の学生達がいて、自分だけ血眼になって就職先を探すなんて、ちょっと虫が良すぎるような後ろめたさもあった。しかしそのような状況の中でも卒業の時は刻々と近づいて来た。「就職活動」ということばもない時代だったが、知人の紹介でいくつかの就職先も当たってみた。なかでも「日本コロンビア」というレコード会社にはかなり興味があったのだが、結局内定まではこぎ着けなかった。あと「新室内楽協会」というところもあたってみたが、マネージャー的な仕事には向かないと考えこの話も立ち消えとなった。

幸い教職の単位は何とか取得できていたので、広島県の教員採用試験には挑戦することにしたのだが、当然全く準備できていなかったため、これには見事に失敗した。しかし問題は就職よりも卒業だった。出来のいい友人達は早々に卒業が決定したのだが、なにしろ管打楽器の連中の中には私のように単位不足の学生が多く、無数の追試やレポートをこなし、二次発表でやっと卒業が決定した。それでも四年で卒業できて本当に良かった。

卒業後、色々と身の振り方を考えたが、郷里に両親もいることだし、ひとまず広島に帰ることにした。当時まで交際していた妻も芸大三浪の時に油絵をやめ、広島に一緒に帰ることになった。彼女はその前年の東京芸大の入試では3次試験まで残り、あと一息という時だったが、私との結婚を前提に思い切って油絵を捨て、私の母の家業である洋裁を学んでいた。

しかし帰郷してもこれといった就職のあてはなく、県北の芸北中学校で音楽の産休代員の仕事が見つかり、まずは3ヶ月教職に就くことになった。その後も小学校や中学校の臨時教員として何とか1年間を乗り切ったが、この年の教員採用試験にも落ちてしまった。結局翌年も1年間の契約で再度芸北中学校で臨時採用教員として勤務することとなった。こう書くとといかにも悲惨な生活のように見えるかも知れないが、持ち前の気楽さで生活の辛さはあまり感じなかった。さら卒業した年の11月には妻と結婚し、仕事もないのになぜか“家庭”はあった。

当時の教員採用試験の倍率は大体15倍くらいだったと記憶しているが、2年間の就職浪人の末、3度目の正直で教員採用試験に合格し正採用となった。最初の勤務校はそれまで2年間お世話になった芸北中学校に継続勤務が決まった。正採用ということで妻とともに教員住宅にも入居でき、私の人生はへき地の中学教諭としてやや遅いスタートを切ることとなった。なんとも頼りない息子の郷里での就職をもっとも喜んだのは両親だったに違いない。

芸北は山間へき地ではあるが四季折々の自然が素晴らしく、贅沢さえ言わなければとても充実した生活の出来るところだった。生徒たちは純真でたくましい生活力があり、中学生はもう一家の重要な「働き手」だった。私の中の生徒観は多くがこのときに身に付いたと感じている。その後のクラブ指導で部員に多くのことを任せられるのも、彼らの中に芸北の子らと同じ潜在能力を信じているからに他ならない。
 
 
ご愛読ありがとうございます。ご遠慮なくコメントをお書きください。
Name   Message   

■2006年02月10日(金)  MY WAY(15)“デモシカ”
音大を卒業し、立場は変わったが再び学校生活に戻ることになった。

私は教師という仕事の特徴はその生い立ちにあると思う。7歳から数えて最低でも6.3.3.4の16年間を学校で学び、そのまま教育現場に舞い戻る。いわば「学校以外の世界を知らない」特異な生活観の持ち主たちでもある。教師の多くは一般社会での職歴を持たない人が大半であるため、ある意味「純粋」な精神構造の持ち主が多い。だからこそ高い理想も持てるし、若者の心理も理解できるのだが、社会的に理解されにくい職業でもある。

ところが私はそういった「立派な先生」にはほど遠い存在だった。受験には失敗するし、音楽には挫折し、卒業や就職もままならない悲惨な青春を送ったいわば「落ちこぼれ教師」だった。

当時「デモシカ先生」という流行語?があった。70〜80年当時はバブル前の高度経済成長期。大卒者の就職先として教育公務員はさほど人気がなかった。教育に情熱を注ぐ以外にも、もっと生き甲斐を感じる職業が多くあった。

「先生にデモ…」「先生にシカ…」 事実こういう形で教師になった人も多くいたのかも知れないが、仕事に行き詰まった教師がやや自戒を込めて言ったことばが「デモシカ」だったのだろう。就職した当初、私もそのうちの一人だと感じていた。

デモシカ教師だったことに加えて、他の先生たちよりやや「育ち」も悪かった。なにしろ万事行き当たりばったりで、大学も一浪し、卒業後二年間就職浪人し、バイトや営業活動などで実社会の厳しさも少しは味わってきた。社会性というほどのものではないが「世渡り」は上手な方だった。そのおかげかどうかは分からないが、保護者への対応、授業研究や生徒指導に悩むことはあまりなかった。

教師としての力量は全くなかったが、芸北中での生活はかなり楽しかった。春先には渓流にヤマメを追い、夏には浜田市まで行き、日本海の投釣りでキス、磯釣りでイシダイやグレを狙う。秋の山々は素晴らしい紅葉が楽しめ、村々では祭礼に石見神楽が催され、冬は1メートルを超す根雪の中でスキー三昧の毎日となる。まさに道楽者には応えられないパラダイスなのである。

クラス数が少ないので音楽の授業は10時間程度で、あとは養護学級の副担任や人手が足りないときは体育、国語なども教えていた。学区が広域なので学校内に寮があり、総じて生徒はとても素直で明るく、学習意欲があり礼儀正しかった。私のような半人前の教師でも生徒たちに慕われて幸せな教師生活だった。このままずっと芸北で教員生活を続けてもいいかなと感じるほど、私はこの環境に惚れ込んでいた。

東京音大とはあまりにかけ離れた環境ではあったが、同僚教師も教育熱心で進歩的な人が多く、不思議と閉鎖性を感じることはなかった。むしろスイスのアルプスにでもいるような「リゾート感覚」を満喫していた。

私はそれまでの音楽一色の生活から解放され、芸北にいる間にずいぶん多くの知識を得た。スポーツは苦手だったが、同僚に誘われてやり始めたスキーは、2年間で2級ライセンスに合格していた。何しろ職員室にインストラクター(公認指導員)が数人いるという環境だった。

田舎暮らしの良さで地域との結びつきも強く、青年団の連中とも仲良くなった。毎週のように教員住宅や公民館で語り合い、大いに飲み、歌い、おまけにバンドを結成してパーティーを開催するなど、お互いの悩みや夢を本音で語り合える仲間もできた。

その当時は、妻とともにこのまま県北のへき地の教師として暮らしていくのだと信じていた。


  
ご愛読ありがとうございます。ご遠慮なくコメントをお書きください。
Name   Message   

■2006年02月20日(月)  MY WAY(16)“二十七歳春「安西中」開校”
芸北での暮らしはそれまで音楽一色だった私の人生に新しい彩りを与えてくれた。厳しい環境の中でこそわかる芸北の人々の心の豊かさや、純真でたくましい生徒たちとのふれあいを通して、とても充実した時間を過ごしたように思う。

1977年3月。芸北中に正採用になってようやく2年目が終わろうとしていた。大学を卒業して早や4年。教職という仕事の大切さや面白さについてなど、徐々に仕事が面白くなり始めたときだった。「斎藤さん、突然じゃが広島に行ってもらうことになったよ」という校長のことば。通常転勤は勤続5年目ぐらいから徐々に予感するものだが、2年での異動は正直意外だった。

その当時私は県教職員組合(広教組)の芸北支区書記長として県北を走り回っていた。運動家というほどではなかったが、東京では学生集会にも何度か参加し、弱者も団結することで何らかの意思表示ができることだけは理解していた。

意表をついた転勤(業界では“不意転”というが)に同僚たちも、組合を通じて留任を強く働きかけてくれたが、一度出た内示はなかなか動かない。結局時間切れとなり私の転勤が決まってしまった。私の転勤を最も残念がってくれたのは、いつも大きな声で歌ってくれた生徒たちと兄弟づきあいをしてくれた青年団の仲間たちだった。

生徒たちは退任式で私のピアノに合わせて涙ながらの全校合唱で送ってくれた。青年団の連中は心尽くしの送別会を開いてくれ、今生の別れとばかり朝まで飲んだ(毎度のことだったが…)。青年団には酪農家もいれば、自動車整備士やガソリンスタンドの跡継ぎ、農機具販売会社の社長など、力自慢がそろっている。結局引っ越しもすべて彼らの世話になり、転勤先から近い安佐南区川内の借家に住むことになった。

安佐郡の可部教育事務所から広島教育事務所への転勤はそもそも管轄外の転勤である。私の実家は佐伯郡大野町なので廿日市教育事務所の管轄に異動するのならともかく、私の転勤先は安佐南区(合併までは安佐郡安古市町だったが)だった。芸北中の校長からは「新設校で吹奏楽を指導出来る人が欲しいそうだ」ということだけは聞いていた。支区書記長ではあったが、組合活動が原因で転勤になったとはどうしても思えなかった。県北には私より優秀?な活動家がまだ沢山いたし、いきなり希望しても広島市にはなかなか転勤できないという話もあった。

どうも様子が変だ。何か自分の知らない大きな運命が音を立てて近寄ってくる感じだった。こうなればもう落ち込んでいても仕方がない。何はともかく、私の転勤する学校を見ようと、「平和台」という真新しい団地を訪れた。売り出し中の新興団地とあって、新築の洒落た外観の住宅が多く、芸北から出たばかりの私の目には眩しいような美しい家が多かった。ところが学校らしきものがない。団地の頂上近くに「工事現場」があった。よく見ると無数のダンプカーやブルドーザーの後に校舎らしき建物が見える。1977年3月28日、その新設校はまだ「工事中」だった。

やがて4月1日、教育委員会で辞令をもらい、転勤先の「広島市立安西中学校」に赴任した。校名は「やすにし」とも「あんざい」とも読めるが。もと安佐郡の安にあることから“やすにし”であることはすぐに分かった。

数人の新任者(管外からの転勤者は新任扱いだった)とともに、まだ工事中で赤土がぬかるむ校門をくぐって、真新しい校舎に入り、校長室で簡単に挨拶し、職員室に行く。職員室にはすでに多くの先生がいて、なんとなく忙しそうに働いている。やがて顔合わせの職員会議が始まり、これらの先生の多くが「安佐中学校」から来た先生たちだとわかった。安西中は人口増加で安佐中学校から分離した中学校だった。

簡単な自己紹介の後、それぞれの教科の部屋に移動することになり、さて音楽室に行こうと思ったとき、「あ、斎藤先生。まだ音楽室はないんよ…」という声。じつは工事はまだ終わっていなかった。何と音楽室が完成していないのだ!

そのとき、ちょっと背の低い、目つきの鋭い先生から声が掛かった。「斎藤さん、ちょっと」。たしかこの人が校長だったということを思い出し、ちょっと緊張した。呼ばれるままに校長室に入り、腰を下ろしたとき、この目つきの鋭い校長は急ににこやかな顔になり、「いやぁ斎藤さん、よろしくお願いします。柳原です。」といって名刺を差し出した。部下に名刺を出すのは変だなと思って、その名刺を見たら「広島市立安西中学校 校長」という肩書きのとなりに「広島県吹奏楽連盟 会長」と書いてあった。

私と柳原校長との出逢いだった。


   
ご愛読ありがとうございます。ご遠慮なくコメントをお書きください。
Name   Message   

■2006年02月23日(木)  MY WAY(17)“「安西中吹奏楽部」誕生”
昭和52年(1977)4月1日、「安西中」は開校した。新興住宅のまっただ中に位置し、生徒数は740名を数え、開校時すでに超マンモス校の片鱗を見せていた。(事実、昭和58年度には43学級、生徒数1,819名の広島市最大のマンモス校にまで成長していくのだが…)

開校時、県吹連の会長でもある初代の柳原慎一校長から「安西中に最高の吹奏楽団を作りたい。ぜひ協力して欲しい」と言われた。今でもそうだが、音楽科出身の校長は少ない。柳原校長は吹連の会長の他にも、広島県の音楽教育に関わる多くの要職を兼任していた。県北にいた私には縁遠い存在だったが、広島県の音楽教育界のトップがいきなり私の上司となった。

柳原校長はなぜ「吹奏楽」にこだわったのか、それには訳があった。「校内暴力」「いじめ」といった流行語が誕生し、生徒の活動意欲が低迷しはじめた時代だった。柳原先生の座右の銘は「心に太陽を、唇に歌を」だったが、当時合唱活動は生徒の「歌離れ」も加速し低迷しつつあった。が、意外に吹奏楽の人気はまだまだ高かった。男子部員もけっこう入部してくる時代で、安佐地区の小中学校には多くの吹奏楽団があった。そういった地域の要望もあり、柳原校長が白羽の矢を立てた音楽活動は「吹奏楽」だった。

だがその人選になぜ私が? 私は管楽器専攻ではあったが、それまでの指導実績はほとんどなかった。私がどういった経緯で安西中に赴任したのか、今となっては知るすべもないが、校長が夢をかけた吹奏楽団を指導させたかったのは、それまでの常識にこだわらず、型破りな発想ができる人間だったのかも知れない。東京の音大の管楽器科を出て、まだ若い私はある意味その条件に当てはまっていたのかもしれない。ちょっと考え過ぎか…。

過疎地でのこじんまりとした学校から、いきなり広島市のマンモス校に赴任した私は、その設備や環境の違いに驚いた。新設校ということで備品も新しく購入するところから携わることとなったのだが、芸北とは比べ物にならない設備や予算に驚いた。やはり都会のマンモス校は違うなぁというのが実感だった。

新設校でもあり、分離前の安佐中にもあった吹奏楽部を再結成することにさほどの異論は出なかった。しかし楽器購入には多くの予算が必要となる。新設校なので他への予算を圧迫しないかという懸念もあったが、校長が音楽科出身ということもあり、この安西中の「重点施策」による私への風当たりはさほど強くなかった。

どういうわけか安西中でも私はまた「新しい楽器」との因縁に彩られる。当時中学校の楽器といえば国産の低価格品が当たり前で、プロ規格の楽器は夢のまた夢だった。それが当たり前といえば当たり前なのだが、私はこれまでの経験から、いい楽器を吹かせることでバンド全体の技術がより早く向上することも知っていた。

当時としてはかなり高級な楽器(とはいっても、ほとんど国産品だったが)のリストを作って、吹奏楽部用の楽器の予算請求をした。80年代はまだバブル前の経済成長期でもあり今よりははるかに予算の回りが良かった。その結果、当時広島県内のどの中学・高校にも負けないほどの楽器を整備することになった。

しかし、すぐに楽器がくるわけもなく、部員たちは来る日も来る日もドラムスティックでひたすら机をたたくという練習を約半年間続けた。気の毒だったのは安佐中で吹奏楽部員だった3年生。結局楽器がくる前に引退となり、唯一の本番「広島市中学生音楽会」は教科備品で演奏した打楽器アンサンブルが「デビュー=引退公演」となってしまった。

新設校への備品整備には優先順位がある、まず授業と教務と学校事務が最優先となる。それから図書室や体育館の設備などの「パブリック」な部分。クラブ活動に関してはそれ以後ということになるのだが、吹奏楽備品は非常に膨大な予算を必要とするため、すべてが整備されるのは3学期末になるという知らせが届いた。

開校当時吹奏楽部員は約40名ぐらいだったと思うが、毎日スティックで机をたたいたり、グランドを走るのが日課だった。この「楽器のない楽団」は、予想以上に熱心で、毎日元気に活動していた。私は高校生の時ドラムをたたいていたので、パーカッションについては多少の自信があったのだが、さらに安西中初代の「非常勤講師」はなんと広島交響楽団のパーカッショニストの松嶋秀男氏だった。

松嶋先生は現在でもそうだが、なかなかクールな2枚目で、いかにも「プロ」といった風情。パーカッション奏者というと理屈っぽくよくしゃべる人が多いのだが、彼はいたって寡黙で、演奏スタイルもまた自然で控えめ。そこが何とも言えずクールで素敵な先生だった。

管楽器のない吹奏楽部で毎日リズム指導をするというこの貴重な体験で、打楽器の奥深さについてさらに多くの知識を得た。その後、安西中のパーカッションが高い評価を受けるきっかけとなったのが、この松嶋先生との1年間だったと感じている。その後私が編成に携わった沼田高、美鈴が丘高では、当然のこととしてパーカッションに最も大きな予算をかけた。現在でもこの信念に間違いはなかったと感じている。

簡単に買い替えがきかない楽器だからこそ、その一音を最高の楽器で演奏させたかった…

  
ご愛読ありがとうございます。ご遠慮なくコメントをお書きください。
Name   Message   

過去ログ 2005年05月 06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2006年01月 02月 04月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 
2007年02月 05月 08月 09月 10月 
2010年06月 07月 08月 09月 10月 11月 12月 
2011年01月 02月 03月 05月 06月 07月 08月 09月 10月 
2012年07月 

一覧表示   日記表示   沼田高校吹奏楽部   沼田高校吹奏楽部 BBS