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■2005年07月20日(水)  ダブルキャスト
生徒は教師を普通の場合「○○先生」と呼びます。しかし教師がいないところでは「○○先生」とは言いません。多くの場合「呼び捨て」か「あだ名」が多いようです。だからといってその先生が嫌いだとは限りません。「○○先生がこうおっしゃったよ」なんて言うと友人にバカにされるような気がするからです。ただ私たちが中高生だった頃と比べると、かなり生徒と先生の距離は近くなったと感じています。

ラジオ「日本全国8時です」で詩人の荒川洋治が「敬語」について話していました。敬語を使うということは目上の人と自分との「距離」を明確にするのだということを言っていました。つまり自分が敬語を使う相手の心に土足で踏み込まないということです。目上の人と敬語で話しているときに「つっこみ」や「冗談」は言えませんよね。しかし、「タメ語」で話していると、ついつい言わなくてもいいことを言ってしまいます。学校で先生と会話する時などは、ちょっと上手に敬語を使うよう心がければ、よりスムースに会話が出来ると思いますよ。

ちょっと話がそれますが、最近は若者用語と言われる難解な単語が増えています。本来は別の意味を持っていた言葉が新たな意味を持って広まっています。古くは「チョ〜○○!」とか「○○みたいな…」、「○○くない?」「○○だし…」「ありえな〜い!」「ウザい!」など、あと省略形もたくさんあって、例えば「キモい」「キショい」「写メ」「ミスド」「ケンタ」など若者用語だけで辞書になるほどの量があります。もしこれらの単語が正しい日本語になったら、私たち昭和世代は通訳が必要ですね。

じつは私たちの学生時代も同じで、流行語やファッションなど今では誰も問題にしないようなことで、大人たちの顰蹙(ひんしゅく)を買っていたものです。エレキバンドなんかは不良の溜まり場と決められていましたし、私が高校生の時ビートルズが来日し、そのコンサートに中高生が行くことが社会問題となったこともありました。校則を坊主頭にするか長髪にするかで紛糾した学校もたくさんありました。今じゃビートルズは教科書にも載ってるし、当時若者に不評だった坊主頭は今や先進的なファッションです。ヘアスタイルやファッション、言葉遣いなど、時代とともに少しずつ価値観が変わっていくものなんですね。

最近の若者用語を聞いていて、ふと音大生時代、東京でバンドのアルバイトをしていた頃使っていた、ドンバ言葉というのを思い出しました。バンドマン(主にジャズバンドでメシを食っている人)の世界では今でも普通に使われる言葉ですが、一般人にはちょっとわかりにくい言葉です(吹奏楽の世界では時々使われるので、おなじみの言葉も多いですが)。若者用語もこんな感じで生まれてきたとすれば、その底に流れているのは「連帯感」や「親近感」や「独創性」なのかも知れませんね。

そう、若者はいつの時代も古い文化と新しい文化との合間を埋めるパイオニア(開拓者)なのです。

2000年以上前の古代ローマ時代の遺跡にも「最近の若い者は・・・・」という文章が書いてあるそうです。



 
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  • nmfveieon(2011/11/25 05:28)
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  • dkqvktbh(2012/02/09 01:07)
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  • hucczuh(2012/02/24 18:20)
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  • uvftbunvcwa(2013/04/13 00:57)
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■2005年07月22日(金)  MY WAY(8)“廿日市高校〜東京音楽大学”
3年生になって、私は志望校を当時は国立二期校であった「大阪教育大学」に定めた。両親との話し合いで、経済的に負担の少ない国公立がいいだろうと漠然とした理由で決定した進路だった。国立だったらもちろん「東京芸大」が最高峰だが、高校2年から始めた受験準備で間に合うはずもなく、受験科目が少ない2期校の教育学部を選んだ。科目は文系科目(国/社)から1科目と理系科目(理/数)から1科目、それと英語の3科目だった。専攻実技と楽典・副科ピアノもあったが、やはり学力不足が災いしたのか、あえなく不合格・一浪ということになってしまった。

我々団塊の世代はどの局面でも「定員オーバー」の中で推移する。受験に失敗して浪人することぐらいは、受験生なら多かれ少なかれ「想定内」のことで、それほど落胆もなかった。実際芸術方面を目指した私の友人の多くも浪人生活を始めることとなり、まさに「みんなで渡れば怖くない」といった状況だった。予備校に通うものもいれば、いわゆる「宅浪」(当時は吉田拓郎の全盛時代だった)の者もいた。美術や音楽などの芸術系の大学受験者の多くは予備校には行かず、実技のレッスンに通ったり、美大受験者のための教室などに所属して実技重視の浪人生活を送る傾向が強かった。

井上先生との話し合いで、このまま学力不足のままで教育学部を目指すよりは、私立の音楽大学の方がいろいろな面でいいだろうという結論になり、私は東京の「国立音楽大学」を目指すことになった。国立音大は東京都の国立市(くにたちし)にあり、我が国を代表する有名な音楽大学である。他の私立では武蔵野・桐朋あたりが人気で、私のレベルではこれらの大学はちょっとハードルが高い選択だった(らしい)。私はそれまで国立市を知らなかったので、最初は国立(こくりつ)大学と思っていたこともあって、私学なんだったら入り易いだろうし、ここが良いかなと思った(何という受験生だ)。

今でも大体そうだが、音楽大学を受験する場合、普通はその大学の先生のレッスンを受けることになる。国立音大を受験することになって、井上先生に紹介して頂いた国立音大の先生は池松和彦先生だった。池松先生は東京フィルハーモニー交響楽団の首席クラリネット奏者でとても有名な先生だった(それまでプロの人は自分の師匠以外知らなかった)。

万事こんな調子で、この世界にはほとんど知識のない私だったが、秋ごろから毎月1回程度のペースで池松先生のおられる東京にレッスン通うことになった。新幹線がまだ東京〜大阪までしか完成していない時代だったので、広島からは「寝台特急」いわゆる「ブルートレイン」で通うのだが、広島を夜に発つ「あさかぜ」や「富士」に乗って翌朝東京に到着し、レッスンを受けてまたブルートレインでとんぼ返りという行程だった。

池松先生のご自宅は神奈川県の逗子市だったが、先生のお仕事先でレッスンを受けることも多く、後楽園の文京公会堂や六本木の東フィル練習場など、地図を片手に色々な所へ出かけた。右も左も分からない東京で不安も多かったが、プロの「演奏家」の生活を間近に見ることが出来たのは大きな収穫だった。池松先生はとても優しく丁寧にレッスンをしてくださる先生で、技術面よりも音色感や吹奏感、音楽をどう表現するかなどメンタルな部分を多く教えて頂いた。

その年の暮れには国立音楽大学の冬季講習会にも参加した。経験の浅い私はピアノや聴音が苦手で不安も大きかったが、持ち前の図々しさ?で全国から集まった多くの受験生と友達になることが出来た。浪人の私は年上と言うこともあり、みんなから何かと頼りにされることが多く、同宿の管弦打楽器の受験生からは何故か「親分」と呼ばれていた。その中に千葉から来た「林君」というトランペットの受験生がいて、特に仲良しになった。講習会に行ったおかげで私もそれほど惨めな思いはしなくてすむ程度の腕前だと言うこともわかったが、林君は私がそれまで出会った中では最も上手いラッパだった。

受験日が近づいてきて、私は2つの大学に願書を提出した。ひとつは第1志望の国立音大。もう一つは「東京音楽大学」だった。東京音楽大学のことはほとんど知らなかったが、「国立」音楽大学と同じで「良い名前」の大学だと思ったからだ。東京音大はそれまで「東洋音楽大学」と言う名称だったがこの年から名称が変更になり、私は迷わず第2志望校にした。当時東洋音大は国立や武蔵野に比べるとやや入り易いという印象がありキープとしての受験が多かった。

受験日程は東京音大が先で、私は広島から大学近くのホテルを予約し、受験に望んだ。東京音大はそれまで行ったことのない大学だったが、南池袋にキャンパスがあり、雑司ヶ谷・鬼子母神などお寺や墓地などの多いところで、江戸の風情を色濃く残した閑静な場所にあった。行ってみて驚いたのは、完成したばかりの新校舎で鉄筋コンクリート11階建てという超近代的な校舎に最新設備を完備したスタジオなど、当時としてはとても先進的な学校だった。下町とはいっても山手線の内側で23区内という都心にあり、上野や新宿など多くの演奏会場にも近いという利便性があった。

受験当日ふと私を「親分!」と呼ぶ声に振り返ると、何と国立の講習会で一緒だった林君がいた。彼は開口一番「ここはすごいね!先生達も一流だし、これからきっと人気校になるよ」と私の思っていたことと同じことを言った。「もし合格したら国立はやめてここにしようよ」という話になり、他にも何人か来ていた「国立組」も誘って合格の前祝いをし意気投合して別れた。その後東京音大に合格が決まったとき、私は迷わず入学することを決め、約束通り「国立音大」の受験票を破った。裏切る形になった池松先生に恐る恐る誤りのお詫びの電話をしたら「どこに行っても、音楽が出来ればそれで良い。気にしなくても良いよ」と言われて少し気が楽になったが、今でも申し訳ないことをしたと思っている。

もちろん林君も東京音大に入学し、その後いっしょに多くのステージを経験し、多くの想い出も作った。私たちの選択が正しかったかどうかは分からないが、現在東京音大は私学ではもっとも難関の音大として有名で、毎年世界中のコンテストで多くの入賞者を出している。林君はその後「東京校正ウィンドオーケストラ」がプロとして活動を始めることになった時、オーディションを受けて入団し現在も活躍している。毎年コンクールの課題曲を演奏している彼の元気な姿を見るたびに、35年前の受験当時の初々しい彼のことを思いだし、かなり薄くなった彼の頭と自分の頭を比べては一人ニヤついている。


 
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■2005年07月23日(土)  MY WAY(9)“東京生活(プロローグ)”
一浪の末たどり着いた東京での生活は、家探しからスタートした。池袋を起点にということでアパート探しを始めたのだが、70年代でも都心である池袋からはたくさんの交通機関が選択できる。ザッとあげても山手線・西武池袋線・西武新宿線。東武東上線・営団地下鉄など、更に山手線各駅から乗り換えれば無数に選択の余地があった。

幸い遠い親戚が東上線沿線の常盤台で不動産屋を営んでいたので、東上線沿線で探すことになった。実は東上線は埼玉県の川越市方面に行く線なのだが、この沿線の家賃が最も安かった。私は結局埼玉県の朝霞市のはずれに住むことになった。駅は朝霞からさらに離れた志木という駅だった。

路線価が安い理由は他にもあって、その昔この東上線は「イモ電」と呼ばれていた。川越市から特産のサツマイモを東京に運び、帰りに屎尿を川越に運んでいたというウソか真か分からないエピソードがあった。実際に当時は乗り心地も他の私鉄や国電に比べてあまり良くなかった。しかしまあ遠いと行っても池袋まで快速で25分ぐらいの距離だが、都内23区の半額以下の家賃でピアノが置けると言う条件では、ここまで「都落ち」するしかなかった。

私は毎日15分歩いて志木駅まで行き、東上線に乗って池袋で下車し、東口から学校まで更に15分歩くという通学時間およそ1時間の通学を始めた。当然初めての一人暮らし。遅刻せずに登校することや、食事の用意その他、今まで親がしてくれていたことを全て自分でやるという、しごく当然のことがとても新鮮で、それが出来る自分に少し関心もしたものだ。あれほど朝寝坊だったのに、どういうわけか寝覚めも良く、毎日の食事も最初のうちはきちんと作って、なかなか順調な大学生活のスタートだった。
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  • jsbfmkprjqp(2012/11/24 09:17)
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  • bsebisrdti(2013/04/07 04:35)
    USA
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