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■2005年06月02日(木)  MY WAY(2)“野田先生との出会い”
小学校時代4年間活動した合唱をやめ、中学2年生にして初めて「吹奏楽」の世界に首を突っ込んだ私ですが、待ちに待ったアルトサックスを手にしたときの嬉しさは例えようのないものでした。ほかにもいろいろな楽器がきたのですが、やはり私の直感通り、アルトサックスが一番好きになりました。

そのときの顧問の先生は臨時採用の先生でしたが、中学生の私たちにとても親切で話も面白く、何より音楽にとても詳しく、才能豊かな先生でした。ここから私たちの「仰天バンド奮闘記」が幕を上げたというわけです。

印象に残っていることは、先生が木管楽器も金管楽器も打楽器もすべて自分で演奏して聞かせてくださったことです。いまなら「先生すごい!」という感嘆の声に包まれるところですが、私たちはちょっと違っていました。「こんな音が出るのか」とか「フムフムなるほど」とあたかも自分がやればすぐ出来るかのような感じがしたものでした。恐れを知らない中学生たちは、数週間もすると何人かはもう曲を吹いていました。音階なんか2〜3日でできたように記憶しています。(当然、音色やピッチまでは気が回りませんでしたが…)
映画「スイング・ガールズ」で初心者のタレントが数ヶ月でジャズを演奏出来たという話は何も不思議なことではありません。必要なのは「夢」です。

さて、その練習方法ですが、私たちには音楽の知識がなかったので、先生だけが頼りでした。私は小学校で4年間も合唱経験がありながら、楽譜はほとんど読めませんでした。優秀なアレンジャーでもある先生は初心者に難しいところはその場で書き直してくださいました。40年前当時は楽譜が読める生徒の方が珍しく、ほとんど全員が音譜の下に鉛筆で「ドレミ」か「ピストン番号」を書いていたものです。かくして楽器を見たこともなかった中学生たちは、3ヶ月後の運動会で行進曲を演奏出来るまでに上達しました。もちろん下手な演奏でしたが、なんとかバンドの形にはなっていたように思います。

今思えば、ほとんど先生がやって下さっているのに、何故か自分たちだけで出来たという達成感があって、すごく充実したクラブ活動でした。だんだんと先生のすることが何もかもかっこよく見えて「自分もあんなことが出来たらいいのにな」という憧れが大きくなりました。

この先生は当時臨時教師として大野中に赴任された《野田耕右先生》でした。先生は当時広島交響楽団でストリングバスを担当され、広響のアレンジャーとしても活躍されているいわばプロの演奏家の方でした。大野中にこのような音楽の専門家の先生が来られ、先生といっしょに伸び伸びと音楽を体験させていただいたことが、その後の私の音楽人生を決定したと言っても過言ではありません。先生は現在もお元気で音楽指導者として、また編曲・作曲者として元気に活躍されております。先生は「広島アジア大会」では各国の国歌の編曲を担当され、ご健在ぶりが新聞にも紹介されました。

私たちがいた頃の大野中学校ブラスバンド部は先生のお考えでコンクール出場をしませんでした。コンクールが何なのかも知らなかった私たちには全く影響がありませんでしたが、先生には大野中の生徒にはコンクールを目的とした音楽活動はさせたくなかったのだと思います。

私が教師になり吹奏楽を教えるようになって、野田先生にも幾度か来て指導していただいたことがありますが、先生の音楽に対する要求の高さと厳しさに驚かされたことが何度もあります。私たちにはあんなに優しく指導された先生ですが、コンクールで「審査員に評価される」音楽を演奏するということがどういうことなのかを身をもって教えてくださいました。今でもコンクール・レパートリーといわれる作品についてはあまり良い印象がないようで、私が選んだ曲に対して苦言を言われることが少なくありません。
きっと先生は「斉藤君!あんたぁコンクールなんかのために生徒の成長を犠牲にしとらんか?もっと大事なことを教え損なっちゃあおらんかいね…」と言われているのだと思います。

『先生、私も歳を重ねるにつれ、本質を見極めようとしてはいますが、まだまだ先生の境地には到達できません。まだまだ修行が足りませんね。』

子供の持っている可能性は本当に素晴らしいものです。一つの楽器を基本からマスターするには長い時間と厳しい練習が必要です。我々の仕事は「厳しい修行」を「楽しい練習」に置き換えることで、子供たちの音楽に対する感性を育てるということなのだと思います。どの生徒にもある「上手くなりたい」という夢を大切に育ててやれば、やがて生徒は自分で成長していくものだと思います。
世の「トップ・プレイヤー」といわれる人が個性的で魅力的なのは、その人が「型」に縛られない素晴らしい音楽体験をしたからに違いありません。

野田先生との楽しい想い出はまだまだたくさんあるのですが、また項を改めて紹介したいと思います。
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■2005年06月15日(水)  ジャズ考
grp0825234410.jpg 415×416 31K私には何かの障害があるのかもしれないが、子どもの頃から頭の中でいつも「音楽」が鳴っている。
聞くという感じではなく、まさに「耳鳴り」と同じようなものである。誰かと話していないときは片時も休まずに何かのメロディが聞こえている。それがどんな曲なのかはほとんど記憶できないが、その日によって歌謡曲であったり、学校で習った曲だったり、エチュードのメロディだったり、ラジオから聞こえてきた外国の曲だったりと様々である。今でもその傾向はあるが、頭の中の曲のリズムに合わせて足を踏んだり、体を揺すったりと、実に落ち着かない。
昔から親や友人や先生から「落ち着きがない」と言われていたが、今でもそうだと思う。よく「貧乏揺すり」をする人がいるが、私も気がつくと足をパタパタとやっている。頭の中のメロディを見えないドラムセットで伴奏しているのだが、それが精神的な病気だとすれば私は紛れもなく重症だ。

最近頭の中でよく鳴っている音楽は「ジャズ」だ。ジャズとはもう50年を越す付き合いになる。
ひとことにジャズといっても、ジャズと名の付いた曲があるわけではない。たとえレコードメーカーで「ジャズ」と分類されていても、自分にはそうでないものもあるし、民族音楽や前衛音楽の中にも私にとっての「ジャズ」はある。最近では「表現者」によって毎回の演奏構成が決定され、即興性の強いものはジャズと考えるようになった。

しかし私が最初に聞いたジャズは歌謡曲だった。「東京ブギウギ(笠木シズ子)」「月光値千金(榎本健一)」などの一連のスイング風の歌謡曲が幼い私にはジャズだった(もちろんBoogee Woogee調のジャズもあるが…)。なぜかというとそれは「スィング」だったからだ。私たち団塊の世代は「JAZZ=SWING」なのだ。ベニー・グッドマンやグレン・ミラーなどの曲を「モダン・ジャズ」と区別して「スィング・ジャズ」や「スタンダード・ジャズ」というが、これらをそう区別して聴いたのはもっと大人になってからだ。

吹奏楽のレパートリーではこの「スィング・ジャズ」時代の作品が多い。実際によく聞くし、名曲としての愛着はあるが、今の私にはどうもジャズを聞いているという醍醐味はあまり実感できない。これらの曲はいわば「段取り」の決まったジャズだ。私の聴きたいジャズはもっと「スリリング」なものだ。スイング(4Beat)でもアフロでもワルツでもリズムは何でもいい。そこにしかない、「その時にしか出来なかった」音楽が聞きたいのだ。

ジャズでは演奏家が作曲者より優先する。モダン・ジャズを紹介するときは作曲者名は紹介されなくても演奏家(パーソネルと呼ぶ)は必ず紹介するのが決まりだ。曲の題名は何であれ、メンバーがどう演(や)るかがすべてなのだ。演奏者が納得して演奏すれば出していけない音はない。良かったかどうかはオーディエンス(聞き手)側の問題だ。

吹奏楽でポップスを演奏するとき、アドリブ・ソロは自分で考えてやるのが当然である。しかし大半の生徒はメモリー(オリジナルのアドリブを採譜したもの)をみて練習する。あたかもそれを間違わずにに吹くことが正しいんだとばかりに…。本来の醍醐味であるインプロビゼーション(アド・リブ)をメモリーで吹いたら、もうこれは「東京ブギウギ」と同じなのだ。指導者の責任でもあるのだが、高校生にもなって(失礼!)自分を表現できない(したがらない)生徒が多いことは少なからず残念なことだ。
アドリブにはある程度コードの制約があるが、「即興演奏」にこだわらなければ、自分で事前に「作曲」してもいいと思う(フュージョン的なアドリブ法だが)。そのためには「音楽を多く聞く」という必要が出てくる。まさに音楽は記憶なのである。ソロだけじゃなく、バッキング(伴奏)やフィルイン(ドラムのおかず)でも自分の個性をを出してもっと演奏することを楽しんでもらいたい。

もうすぐ文化祭がやってくる。ソロを吹く人はワン・フレーズでも「自分の音」を出そう。そうすれば君はもう立派な「アーティスト」だぞ!


  
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  • ggymkmtv(2012/05/01 18:13)
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■2005年06月20日(月)  MY WAY(3)“ブラバンが最高だったわけ”
中学2年から始めた吹奏楽。楽器を演奏するなんてあまり興味がなかったのに、やり始めてしまうと、すぐにこの摩訶不思議な世界にはまりこんでいったのでした。なんといっても楽器を毎日さわれたことは大きかったと思います。

少年時代にバイクに憧れた人は多いと思いますが、私にとってサックスはバイクと同じような存在でした。つまり「大人の道具」だったのです。中学生が使えるものはほとんどが「子供用」か「生徒用」の道具です。スポーツ用品にしても顕微鏡のような教具にしても、形は本物っぽくてもどこか玩具っぽくて好きになれませんでした。

学校で使う楽器もなんとなく子供用でオルガンや木琴、リコーダーやハーモニカなどの簡易楽器が主体でした。そんな中で私にとってサックスは紛れもない「本物」でした。その重さ、輝き、アクションの動きすべてがメカニックで私を虜にしました。

ちょっと変かもしれませんが、楽器のケースの臭いってありますよね。私は実はこの臭いも好きでした。私の楽器はサックスだったので四角いハードケースに入っていましたが、中はフカフカの毛足の長いフェルトが貼ってあり、レザーケース独特の「大人っぽい」臭いがしました。毎日ケースを開けるたびにこの臭いを嗅ぐことで、自分が一人前の音楽家になったようで、ちょっといい気持ちでした。

そして忘れられない想い出は何といっても「アフター・クラブ」です。練習が終わったら、なんと先生(前回紹介した野田先生です)と遊ぶのです。毎日ではありませんが、先生が何か面白いことを話してくれたり、レコードを聴いたり、ソフトボールをしたり、とても楽しかったことを憶えています。野田先生の方針だったと思いますが、結成時のブラバン・メンバーは全員男子でした。女子が入部を希望しなかったのかもしれませんが、野田先生は「女子が入るとバンドはやりにくい」というのが口癖でした。

もうとっくに時効ですが、男だけのブラバンのこと、かなりアブナイこともしました。昔「2B弾」という花火があってマッチ箱でこすると火花が出て破裂する爆竹型のやつでしたが、これが当時大流行で先生と大量に買い込んで来て、いろいろな所に仕掛けては楽しんでいました。だんだんエスカレーして、魚を捕ろうとビンに詰めて水中で破裂させたり、ついにはトンボやセミに爆竹を付けて飛ばしたり、現在だったら間違いなく大問題になるようなことを先生と生徒がツルんでやっていました。

それと中学校にはスーパーカブというバイクがあって、先生方や業務員さんが使っていたのですが、これにリヤカーを付けて数人がリヤカーに乗り、グランドを何周も引っ張ってもらって遊んでいました。これもだんだんエスカレートして最後は「ま、構内だからいいじゃろう」という先生の一言で部員全員が無免許運転というありさまでした。昔のことで、周囲もだんだん吹奏楽部がグランドでバイクに乗ることに慣れてきて、体育祭の時の椅子運びや大きな楽器運びはこの「リヤカー付きカブ」を当然のように吹奏楽部員が運転したものでした。とにかくブラバンは私たちにとって最高に楽しいクラブだったのです。

実は、この楽しさが自分たちに音楽を「楽しむ」ことも教えてくれていました。楽しく遊んでいるから音楽はいつもその延長線上にあって、自分なりに色々と工夫もするし、仲間よりかっこよく吹こうと努力もし、人前での発表力もつきました。音楽を苦しい修行のように思ったことは中学生の時には全くありませんでした。

現在沼田高校吹奏楽部に「男会」がある理由の一つはこういった私の体験からきているのだと思います。今在学中の男子諸君も昔の私のように音楽を楽しんでくれるといいのですが。

(じゃけどおまえら、あまり悪いことすんなよ!)

 
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■2005年06月22日(水)  MY WAY(4)“大野中から廿日市高校へ”
中学3年生の3学期、私学の入試にはなんとか合格し、公立高校の入試を翌々日にひかえた3月10日、私は想い出多き大野中学校を卒業した。卒業式当日、校門で卒業生を送るセレモニーがあり、吹奏楽部は見送り演奏をすることになっていた。しかしメンバー不足で私たち3年生数人は後輩たちと一緒に卒業生でありながら「蛍の光」を吹いた。本当にバンドに浸りきった中学校生活だった。

セレモニーも終わり、バンド仲間や後輩たちといっしょに記念写真を撮っていたときのことだった。ある男子グループが私を呼びだした。その当時、卒業式当日はけっこう物騒で「お礼参り」というコワい風習があり、在学中になにかと気に入らなかった生徒や先生に「お礼」をして回る輩がいた。案の定トイレのウラに呼び出された私は20人ばかりの生徒に取り囲まれ、キレの悪いパンチを浴びる結果となった。自分としてはやりたい放題の中学生活だったので、このくらいの洗礼は常々覚悟していたが、マズいことに卒業証書が出血で汚れてしまった。

友人に相談して恐る恐る職員室に行き、「自転車で転んだ」というウソをでっち上げ、証書を書き直してもらった。そもそも卒業証書というものは偽造されないように割り印が打ってあり、再発行は出来ない仕組みなのだが、そこは昔のこと、話のわかる先生たちがいとも簡単に割り印を合わせて新しい証書を作ってくださった。じつはこのとき私は顔面に青アザがあり、どう見ても自転車で転んだ生徒の風体では無かったのだが、先生の「武士の情け」でお咎めはなかった。

当時は私にも多くの悪友仲間がいて、やられっぱなしというわけにもいかなかった。先生たちは式後早々に慰労会に出かけて留守だったこともあって、その日は夜まで大野の街は血走った中学生たちの戦場と化していた。2日後私は右目を真っ青に腫らして公立高校の入試に出かけた。何か恐いものを見るかのような他校の受験生の視線がちょっと誇らしかった。(この時やり合った連中とは今も時々同窓会等で出会うが、当然みんな立派な社会人だ。中には有名な老舗の料亭の社長もいて、時々テレビにも出演している。あのときのことはお互い懐かしい想い出話となっているが、彼らにも私が教師になっていることだけにはどうも納得がいかないようだ)

1965年(昭和40年)4月、私は大野中学校を卒業し、広島県立廿日市高校に入学した。自宅からバスで約30分ほどの街にある普通科の高校だった。ここには当時から活発な吹奏楽部があり、当然入部しようとは思っていたが、合格者登校日に「斉藤君!」と面識のない私に笑顔で話しかけてきた先輩がいた。

この人は当時2年生トランペットの高見さんだった。(高見さんは高校卒業と同時に電信電話公社(今のNTT)に就職後、吹奏楽団のメンバーとして活躍され、現在のNTT吹奏楽団の基礎を築かれた方である。)
どうして私の名前がわかったのか、誕生したばかりの大野中学校吹奏楽部のことを知るはずもない人から声をかけられちょっと戸惑ったが、入部の意志は固まっていたので、翌日から練習に参加した。アルト・サックスの経験があったので、サックスパートを希望し、結局テナー・サックスの担当になった。

しかし、最初に与えられた楽器はメーカーもよくわからないぼろぼろのテナーサックスだった。私がそれまで吹いていた楽器は新品だったので、そのギャップにちょっと落ち込んだが、先輩達も親切だったし、何より「女子」部員がたくさんいたことにカルチャーショックを受けた。男子だけのバンドも硬派な感覚で楽しいが、女子が細やかな気配りをしてくれるバンドもこれはこれで悪くない。

私は楽譜が読めなかったので、女子の先輩が優しく教えてくださったことがとても嬉しかった。先輩の吹いたメロディを2〜3回聞くとほとんど吹けるようになった。やがて一人でも練習できるようになった頃、顧問の先生に呼び出された。
この先生は井上亨先生という先生で、吹奏楽部の指導にとても熱心な先生で、その後私の進路についてひとかたならぬお世話になることになる先生であった。井上先生はご退職後の現在も地域の吹奏楽団を指導されるなど多方面で活躍されている。

その時私は井上先生から思わぬ知らせを受けた。「こんどテナー・サックスを買うけぇ、斉藤吹けや」信じられないことだが、1年生が新品の楽器を吹くことなどまずありえないことだった。数日後、廿高の音楽室に真新しい楽器が届いた。「Buffet Crampon」と書いてあった。クランポンはフランスのパリにある有名な木管楽器メーカーで、現在でもプロ用クラリネットのシェアは世界一である。サックスは日本ではあまりお目にかからないが現在でも新品で70万円はするシロモノである。

この後私の人生はことある毎に「新品楽器」に彩られることとなる。
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■2005年06月23日(木)  MY WAY(5)“FRIENDSHIP 5”
廿高に入学してすぐに新品のテナーサックスを担当することになった私は、これまで以上に音楽にのめり込んでいくことになった。高校になって初めて参加した吹奏楽コンクールでは、中学校とは比べ物にならないほど高度な演奏を要求され、何度となく挫折も味わった。そんな時いつも私を救ったのは中学校で培った「音楽って面白い」ということだった。同級生たちが泣きながら練習しようと、誰が私にダメ出しをしようと、全く気にならない程のお気楽ぶりだった。もちろん人一倍練習もするが、遊びも人一倍楽しんだ。音楽にはのめり込んだが集団に飲まれることはなかった。これは今でも私の基本のスタンスである。

中学校時代のメンバーとも交流は続き、高校には内緒で「エレキ・バンド」も始めていた。当時はグループサウンズが全盛で彼らは早々に吹奏楽から引退し、独学でギターやベースを買い込み、見よう見まねでバンド活動を始めていた。当然私にも誘いがかかり、二つ返事で参加することを決めた。練習場所は集会所として使用されていた古い小学校の校舎であった。「バンド=不良」という風潮の当時、もちろん廿高吹奏楽部には内緒にしていた。

チーム名は高校生になっても変わらない私たちの友情を象徴して「FRIENDSHIP 5」となった。当時テナーサックスがリードするブルー・コメッツというグループが人気絶頂だったので、私がサックスを吹こうかとも考えたが、まさかあの新品の高級楽器を廿高から持ち出すほどの勇気はなかった。そこで私は以前からやりたいと思っていたドラムを担当することに決めた。ドラムセットは親を説得し、中古の安物を何とか手に入れた。

気心の知れた仲間のこと、練習を始めて1週間ぐらいで早くも合奏できるようになり、レパートリーも徐々に増えていった、テレビで見るととても難しそうな曲も自分たちで演奏すると吹奏楽よりもかなり単純だという事実を知った。

ドラムは全くの独学だったが、毎日テレビを見て動きをまねしているうちにそれらしいことが出来るようになった。レパートリーはベンチャーズやスプートニクスなどのボーカルのいないバンドの曲が多かったが、日本のグループ・サウンズの曲もやっていた。ボーカルについては交代で担当したが、ドラムを叩きながら歌うためのマイク用ブームスタンドが手に入らなかったので苦労したことを憶えている。

その後「FRIENDOSHIP 5」はどんどん上手くなり、週末になると岩国市や広島市のライブ・スポットで演奏するようになり、高校2年の夏まで機会を見つけては集まった。しかしバンドをやっていると必ず直面するのは、技術面の不満と機材(資金)の不足だ。これからこのバンドをどうするかというときになって、潮が引くようにみんなそれぞれの道を歩むことになった。音楽を楽しむことと音楽で飯を食うことは根本的に違うのだ。これも中学校の時に私たちが身をもって学んだ鉄則だったと思う。

私はその後廿高の吹奏楽に専念することとなったが、2年生の2学期になったとき、思いもかけないことが起きた。藤井君というクラリネットの同級生が「俺は音楽の先生になるために音楽系の大学に行くけど斉藤はどうするん?」と唐突に問いかけてきたのだ。それまで音楽系の進路に行くことなど全く考えていなかった私だったが、どういう分けか「おれも!」といってしまった。それを聞いていたフルートの木村君という同級生も「わしも行こうかの?」というではないか。その後トランペットの梶川君も加わり結局私たちの学年の大半の男子部員が「音楽系進路」を選択することとなった。

私はその決心を顧問の井上先生に相談に行った。開口一番「だめじゃ!」との冷たいお言葉が返ってきた。先生は私の気まぐれを見抜いていたのだと思うが、「斉藤のような奴がサックスで音大に行ってもろくなことにならん」という趣旨のことを言われた。ごもっともである。当時はまだクラシックのサックス奏者は皆無な状況でほとんどがキャバレーのバンドマンの楽器というイメージだったので、教員免許を取るためという私の言い分はあまり説得力がなかった。次に先生はこう付け加えられた「どうしてもというんならサックスよりクラリネットの方がええじゃろう」。かくして私は高校2年にして初めて「クラリネット」という楽器を吹くことになった。

私の人生が音を立てて動き始めたときだった。

 
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■2005年06月26日(日)  MY WAY(6)“受験準備”
顧問の先生のアドバイスを受けて、テナーサックスからクラリネットに転向することになった私だったが、このクラリネットという楽器、思ったより難しかった。まず音階を吹くときにオクターブ毎に運指が違うのだ。思わず「おい!まじかよ!」といいたくなったが、何とか受験に間に合いそうなのはこの楽器しかないということもあって、自分としては珍しく本気で頑張って練習した。

音楽方面に進学を志すとき、まず最初にしなくてはならないことは家族を説得して、理解をを得ることだ。自分なりに色々と調べた結果、音楽方面に進学すると言うことは半端じゃないお金がかかると言うことが判明した。一般に音楽方面に進学すると一般の大学の約2倍の学資が必要だという。そこで受験先はお金のかからない(であろう)国公立を選ぶことにした。教員になるという約束なので、教育学部の音楽を中心に探した結果、大阪教育大学の高校音楽を受験することとした。私には音楽が出来ればどこも同じ事だった。

とにかく「教員免許が取れる」「国公立に行く」「学資はバイトして稼ぐ」ということで何とか親を説得した。その結果、当時7〜8万円だったクランポンの楽器を買ってもらうことが出来たのは2年の3学期だった。何しろ大学卒の初任給が3万円ぐらいの時代だから、子どもの道具としてはどんなに高価な買い物だったかはご理解頂けると思う。

楽器の方は何とか購入できたものの、音大受験には楽典・聴音やピアノが必要なので、毎朝6時半に廿高の講堂でピアノを練習する日が続いた。毎朝誰もいない校舎に登校し、業務員室で講堂のカギを受け取り約1時間の練習を続けた。

現在は多くの家庭にピアノがあるが、昭和40年頃の私の住む町ではピアノがある家庭はまだほとんどなかった。しかし、ピアノに全くの初心者が朝の練習だけではどうしても限界がある、そこで両親に何とかピアノを買ってもらえないかと相談したが、こちらはクラリネットの数倍の価格である。しかしねばり強く交渉した結果、結局両親もしぶしぶピアノを購入することに賛成してくれた。本当に親というものは有難いものだ(歴史は繰り返すのか、現在は自分の長男に同じ思いをさせられているが)。

 
 
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■2005年06月27日(月)  MY WAY(7)“井上敬三先生との出会い”
img1-keizo2.jpg 182×300 9Kクラリネットのレッスンは当時広島大学とエリザベト音大の講師をされていた井上敬三先生に師事することとなった。当時敬三先生のお宅は広島市の白島九軒町にあり、私は毎週白島までレッスンに通うことになった。先生のレッスンは初心者の私にもとても分かりやすく、先生から伺うお話もとても楽しく興味深いものだった。

先生は陸軍富山学校(東京芸大管楽器科の前身)のご出身で日本の管楽器奏者の草分け的な存在だったが、大学でクラシックの楽器を指導される傍ら、広島では著名なジャズ・サックスのプレイヤーでもあった。またここで、私はジャズと数奇な出会いをすることとなった。

高校2年生で突然始めたクラリネット。今思えばきっと態度やマナーも悪く、そこらのエレキバンド少年のような若造が(事実そうだった)ふらっとやってきたぐらいの印象だったに違いない。先生から見ればとんでもない「即席の受験生」の私のことを嫌うでもなく、あきれるでもなく、優しく丁寧に指導していただいたことは本当に有りがたかった。

その後、先生は1973年の私たち夫婦の結婚披露宴でも素敵なジャズを演奏してくださったが、1979年57才の時、坂本龍一(keyb)、渡邊香津美(gt)、坂田明(As)(坂田さんは敬三先生の一番弟子である)などの有名ミュージシャンと「Intimate」というアルバムで華々しくメジャーデビューされた。私は当時大学を卒業し、もうすでに安西中の教師として活動していたが、自分の師匠の遅咲きの快挙に度肝を抜かれた。

その後も敬三先生は幾度となく海外に招待され、内外の多くのアーティストとの共演を通して「Keizo Inoue」の名は海外でも高く評価された。また敬三先生と奥さんの闘病記をドキュメント取材したTV番組も制作され、先生の優しい人間性に多くの感動が寄せられた。先生は2002年1月15日、90才で他界されるまで「現役世界最長老のフリージャズ奏者」として第一線で活躍された。

もう先生の演奏を生で聞くことは出来なくなったが、日本のジャズファンで敬三先生のことを知らない人はいないと言っていいほどのビッグネームで、現在もまだ多くのアルバムがリリースされている。

私の音楽人生は本当に恩師に恵まれていた。人生の節々でその時望み得る最高の指導者に出会えたことは、何にも増して私の宝だと思っている。

私も指導者として、恩師の何分の一かでも生徒たちの支えになれればいいのだが…。

 
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  • cfsdez(2012/05/01 18:19)
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